2012年4月10日

2009年 ラジオのインタヴュー8~9(終) 諸宗教に対する寛容についてなど


8.    スイスの改革教会は、大変に寛容にふるまっています。様々に異なる宗教的な見解を持つ人々にも、教会は居場所を用意しています。そのため、もはや束縛的な信仰告白をこれ以上持つことはありません*。日本の改革教会ではいかがですか。


まず、質問の意味を明確に受け取るために、「束縛的な信仰告白」という用語に、わたしは少し違和感を覚えるということを、率直に申し上げなければなりません。多分、あなたの意図は、信仰告白全体が束縛的だというのではなく、信仰告白の中に、ときどき他者に対する寛容を見失った文言が紛れ込んでしまったり、信仰告白の暗誦が他の宗教的見解を否定する形で用いられ、強要されたことがあったという教会の反省を踏まえているのではないかと思います。しかし、歴史的な信条・信仰告白それ自体は、本来的に全体としては、束縛的なものから自由でありたいという願いを土台としていたと思います。むしろ、自由な恵みとか、公同性(カトリシティ)などを確認させ、共同体の喜ばしい一致を言葉にさせるのが信条であるはずです。そのような歴史的な信仰告白を、改革教会は常に新しく言葉を練り上げながら、間違いがあれば訂正しながら、今に至るまで大切にしてきているのではないでしょうか。わたしは、同じ言葉をもって一致できない教派的現実に取り組み、それを乗り越えようとする努力が、スイスの改革派教会でよくなされていると思います。それは、広く対話をし、一致できる言葉を探す作業であると思います。日本の改革教会も、歴史的な信仰告白の言葉を常に吟味することで、その努力を続けてきました。対話の範囲は、スイスの改革派教会ほど広いとはいえないかもしれません。他の福音主義やカトリック教会の信徒たちと同じ礼拝をまもることは少なく、まして、ましてユダヤ教やイスラム教などの人々と、聖書の神について話し合う機会などありません。神道や仏教の人々と、日本における「信教の自由」に関わる学びのときや集会で顔を合わせることはあっても、彼らが教会に居場所を持つということは今のところ考えられません。これには、日本のキリスト者の少数派という立場が影響しているかもしれません。つまり、わたしたちはむしろ、自分たちが何を信じているか、ということを、まず第一に明確に言葉にしなければ、だれもキリスト教の本来のメッセージを知らない文脈で信仰告白に取り組んでいるからです。それは、教派的な伝統を掘り下げる作業でもあります。結果として他者との違いを浮き彫りにさせる作業でもあります。しかし、違いを認め合うという形での、寛容さは、自らの個を確立しながら、緊張関係をまっすぐに見つめる視点がなければ、無責任になってしまうのではないかと思います。このような意味での「寛容」を、日本の教会は、スイスをはじめとするヨーロッパの教会の歴史と神学から学んできました。そして、今も、ミナレット問題への取り組みなどに代表されるスイスの教会の姿勢から、学ぶことはとても多いなと感じています。私たちの教会も、寛容を身につけ、多くの壁を具体的に乗り越えていきたいといつも祈り願っています。

*スイス・ドイツ語圏の福音主義・改革派国民教会では、宗教改革500周年を記念する2017年にむけて、新しい信仰告白を準備中であり、スイスの教会が信仰告白を放棄することはないと思われます。ラジオのインタヴュアーの意図は、そこにはなく、2009年に社会問題となっていたイスラムとの対話の問題、諸宗教/宗派観の寛容・非寛容の問題を背景になされています。

9.  あなたは、こちらでの学びの後はどうなさるおつもりですか。スイスで働くことを希望しておられますか。それとも、日本に戻られますか。


日本に戻り、牧師として仕えて生涯を過ごしたいと思っています。とてもとても働き手が足りないものですから、ここで学んだことを、次の世代にも伝えるような仕事ができればいいなと考えています。

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