2012年4月10日

2009年 ラジオのインタヴュー6~7 日本とスイスの改革教会


6.    日本の改革派の教会は、どのような状況ですか。目を覚ましていますか。


はい。眠ってはいません。ですが、少なくとも改革派教会は、弱さを覚えています。働き手が足りないためです。たとえば、わたしが昨年までの三年間仕えた東京の教会は、日本キリスト教会で二番目に大きな教会ですが、礼拝出席者数平均約100名のうち、70―80名は75歳以上です。信仰と人生の経験が深い高齢の人々から受け取ることのできるものはとても多いことは事実ですが、残念ながら、それを受け取る子供たちや、若い世代、そして、働き盛りの中堅層が欠けています。なぜか。その理由は、わたしたち自身が問い続けている問題で、ここで簡単にこたえることができません。今、私たちの問題は、あらゆる意味で、対話が十分ではないということにあるのかもしれません。世代間の対話、教会間の対話、宗派間の対話、宗教間の対話、その緊張と豊かさの中に身を置いて、その上で目をぱっちり開いていたいと希望しています。

7.    日本の改革派教会とスイスの改革派教会、そこにはどのような相違点がありますか。また共通点がありますか。


目に見える大きな相違点は、日本では靴を脱いで礼拝堂に入ることでしょうか。その他にも、もちろんたくさんの相違点があります。私にとって、最初に強い印象を受けたことは、礼拝におけるオルガニストの位置づけのちがいです。スイスの改革派教会では、オルガニストは一つの職として確立しています。多くの日本の教会では、牧師以外の他の務めと同様、奏楽は教会員の「奉仕」でなされます。つまり、無料のボランティアです。わたしは、そこに、礼拝の実践神学的認識の違いが表れていると思います。日本の改革派教会は、長い間、礼拝の中心を、講義のような長い説教においてきました。十九世紀ごろのアメリカの比較的簡素な礼拝形式を受け継いだ日本の教会では、「礼拝の中心は御言葉である」、「礼拝の中心は説教である、いや、礼拝は説教である」という言葉が、しばしば強調されました。近年、少しずつ実践神学者たちや牧師たちの間で、礼拝の神学に関心が集まるようになり、礼拝の他の要素の意味や、リタージの順序をその多様性の中で見直す動きも出てきています。礼拝の中の讃美歌の位置づけも見直され、御言葉に対する応答としての讃美は、他の要素と同様礼拝における頂点の一つだと訴える人々も出てきています。けれども、日本の教会で、専門の教育を受けた音楽家に給料を支払い礼拝音楽を一つの職として任せるということは、あまりありません。その結果、あたらしい讃歌や伴奏譜が芸術的な一定の評価を保てる形で作曲されることはほとんどなく、さらに残念なことに、たとえば、ジュネーヴ詩篇歌などの、歴史的なすばらしい教会の音楽的遺産を専門的に評価する視点を日本の改革教会は欠いてきたのです。カルヴァンが自分で詩篇を韻律化したことに始まるジュネーヴ詩篇歌の150篇が、日本語で出版され、教会で歌えるようになったのは、つい最近、ようやく2005/6年になってからです。スイスの改革教会にとって最も古い「神に与えられた聖書の御言葉によって讃美する」という讃美の在り方が、日本の改革教会にとっては最も斬新な讃美の在り方であるということ、これは私の目には非常に大きな相違点です。
類似点も多くあります。一つだけ挙げるとすれば、それは、教会会議における焦点の一つが、近年は、もっぱら困窮した経済に対する対応の問題であるということです。わたしたちは、世界規模化した世界経済の中で、同じ時期に同じ問題を抱えながら、同じ福音に生かされているということだと思います。経済問題が、真実を実行する大胆さを奪ってしまわないようにと願っています。

0 件のコメント: