2011年5月9日

「大河へ通じる小川(バッハ)―震災後の日常を問う音楽」


以下、スイス・チューリヒのアドリスヴィル福音主義・改革教会で
主催したピアノコンサートにおいて、
メッセージとしてドイツ語で語ったものの日本語原稿です。

プログラムは、

ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)の
15のインヴェンション(Inventionen  BWV 772-786) と
15のシンフォニー (Sinfonien BWV 787-801)。

演奏家は、
平木克宣氏でした。

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今日、わたしたちが平木氏の演奏を通して聴いているのは、バッハが自分の息子と子どもたちの教育のために作曲したいわば練習曲の集まりです。ッハはそこに演奏家や音楽学徒が学ぶべきあらゆる要素をシンプルに詰め込みました。「小川(Bach)というよりは大河だ」(ベートーベン)、と絶賛されたこの歴史的な大作曲家は、日々の小さな積み重ねの大切さを知っていました。大河は、小川が集まってこそ大いなる流れとなるのです。一日一日がいかに貴重であるか、普通の日が人生全体にとっていかに大切かをこの曲は教えてくれます。これらのシンプルな曲を演奏するためには、小さな間違いがゆるされないことはもちろん、どんなごまかしも通用しません。シンプルな曲だからこそ、演奏家がその曲を本当に自分のものとできているかがよくわかるのです。わたしたちの演奏家平木氏によると、このシンプルな曲を演奏することは、まるで、演奏家が裸になるようなもので、実は音楽家は誰も人前で演奏したがらないのだそうです。ですから、みなさん、心して聴いてください!わたしたちは、今、平木氏が、子供のころから日常どのように音楽に取り組んできたかさらけ出す音を耳にしている、ということなのですから。バッハが毎週自分の職場である教会の礼拝のためにカンタータをこつこつと作曲したりしながら、派手でない日常を誠実に歩んだことが、その大いなる生涯全体をいかに形づくっていったかを知るために、今日のコンサートはすばらしい情報提供となっていると思います。

いや、それだけではありません。わたしたちは、日本人と日本に関わる全ての人々の日常が一瞬にして奪われうるものだと示した災害を経た文脈で、これらの曲を聴いています。今日のコンサートが、わたしたちの文脈で何を語ってくれるというのでしょうか?本日の日本の警察庁の統計によれば、この度の地震・津波・原発事故および余震による死者は14919人、行方不明者は9893人です。また、人間よりも多くの家畜が命を落とした可能性があります。全壊した家屋は83591件、半壊した家屋は31435件です。特に東北地方における経済的な打撃は大きく、日々の最低限の食物にも欠く人々がいまも多くいます。さまざまな情報が錯綜していますが、放射能の恐怖、放射性物質が海に漂うことの譬えようのない恐ろしさ、「爆弾」を抱えた世界の今後への不安を、覚えない者はおりません。わたしたち日本人は、現地でこの痛みに直面しているものも、現地から離れて生きているものも、みな、思い知らされました、日常というのは、今にも、一瞬にして失いうるものだということをです。わたしたちの日常を奪う自然や、あるいは、多くの人たちが今回感じたように、何かもっと大きな神がかりとも言うべき力が一度働けば、わたしたちに抗う力はありません。わたしたちの命は、死と隣合わせであり、わたしたちの日常は、はかないと感じざるを得ません。わたしたちは、震災で苦しみ、放射能におびえる人々に、何もすることができないと感じるだけでなく、わたしたち自身の生涯においても、最終的で決定的なことに関する決定権をわたしたちは実は持っていないということにおののかざるをえないのです。

しかし、しかしです。それにもかかわらず、わたしは、今日みなさんとバッハを聴きながら確認したいと思うのです、与えられた日常をどのように生きるかの選択を、わたしたちはやはりしていかなければならないということをです。死んだバッハの作品が、死を超えて、時を超えて日常の偉大さを教えてくれています。わたしたちは、死をさけられませんが、死に勝る豊かで生き生きとした日常の一瞬一瞬を選び取る自由を持っています。それは、日々食べるものの選択や、選びとるエネルギーとその量や、他者との関わりに関する選択となってわたしたちの長くも短くも残された人生を形づくることになるかもしれません。様々な調子で、しかし、楽譜なしで、まるで一つの作品のように、豊かな色彩をもった一孤の虹のような孤を描きながら演奏される残りの曲を聴くことが、みなさまが日本のために祈り、世界と自らの豊かな生のために新しい日常へと希望をもって歩み出すきっかけとなれば幸いだと思います。小さいけれども具体的な祈りの小川が、大いなる希望の大河となりますように!

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